まる子が小学校へ入学し、まる子自身を含めて、いろいろなことが、急速に変わっています
子どもは、立ち止まってなどくれず、つねに成長しつづけるものですが、今回の変化は、ついていくのにやっと…、というくらい大きなものでした。
それで、なんとなく、毎日いっぱいいっぱいで、イライラしがちで、まる子を怒ってばかりいましたが、浜文子さんの著書、『母になる旅』を読んでいましたら、私が忘れていた大切なことを、思い出させてくれて…。
私は、子どもが育つ現場に、一番無くてはならないものは「祈り」だと思っています。
親が、家族の病気や借金といった予定外の不運や、思わぬ事故などに遭遇した時に、いたずらに世を呪ったり、身の上を嘆いたりするよりも、子どもの前で、
「祈りましょう」
と、大いなるものの力に掌を合わせることをしたいと思います。
私は、特定の宗教を持ち合わせていませんが、何か人生で窮地に立たされたり、手持ちの知識や、私自身のささやかな能力では、なんとも解決などできないという物事、事態に遭遇するとき、ひとりでに「神さま、仏さま、どうか助けてください。どうぞ力をください。導きをください。お願いします」と手を合わせてきました。
そして、そのように自動的に動く自分の心を大事にしてきました。
私が、現今の育児に一番「悲しい」と感じるのは、お母さんの中に「祈り」が消えたことです。
(中略)
育児の知識がマニュアル化して、それが頭の中に大きく位置を占めると、「この子は五歳児として平均的に成長している」とか、「言語能力は順調だけれど、運動感覚が少し鈍いようだ」などというように、わが子への観察、分析が始まってしまいます。
知識で頭がいっぱいになればなるほど、分からないことは、さらに知識で解決すれば良いという発想になりますし、分からないのだから祈りましょう、という考え方は、神がかりのナンセンスな行為として、生活から嘲笑とともに締め出されてしまいます。
このような生活の仕方で一番怖いのは、子どもが自分の力だけ(人間の力だけ)を頼るものとして成長することです。
生きる道すじの中に「人間の力しか信じない」考え方だけがはびこると、自分の力が及ばないことが生じたり、何か予測できなかった不運に見舞われた時、立ち上がるのがとても大変な、困難な作業になります。
そんな時も自分の人生に起きたことを、冷静に客観的に見つめ、生き惑っている自分に、絶えることなく注がれている温かな目を意識できたら(そんな目を感じ、信じられたら)、人はまた辛い場所から立ち上がって生きていけます。
私は、この世のすべての子どもたちが本来持っている「信じる」という心を失わず成長できるよう、大人は努力しなくてはいけないと思っています。
それはまず、子どもの最も身近に居る母親が、わが子を「信じる」ところから出発してほしいと願っています。
「健やかに育て!」
「自分の力を信じられる大人になれ」
「私の子は大丈夫」
そう信じて育てることだと思います。
信じなければ、何事も始まりません。
お母さんの中にはときどき、「子どもが学校に行かなくなった」とか、「乱暴で落ち着きがない」「吃音が始まった」などという事情の時、いくつもいくつも病院や専門家を訪ね歩き、心を痛めきっている人がいます。
けれどもまずは、お母さん本人が、
「大丈夫!きっと、子どもはうまくいく」
と自分にしっかり言い聞かせることです。
お母さんの、そんな一言、強い信念の無いところでは、子どもの心も心細く漂流します。
「一緒に何度も祈ろうね。
大丈夫。
きっといつか全部良くなる」
と、子どもに言い聞かせましょう。
子どもの心細さは、そのお母さんの言葉と心で安心を得るでしょう。
大切なのはそのことです。
自分のために祈ってくれる人の存在は、それ自体ですでに子どもの心に安らかなものを与えます。
まる子は、きっと大丈夫!
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